『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その2

その1の続き。


久之、叔父成都侯(王)商上書、願分戸邑以封莽、及長樂少府戴崇・侍中金渉・胡騎校尉箕閎・上谷都尉陽並・中郎陳湯、皆當世名士、咸為莽言、上由是賢莽。
永始元年、封莽為新都侯、國南陽新野之都郷、千五百戸。遷騎都尉光祿大夫侍中、宿衛謹敕、爵位益尊、節操愈謙。散輿馬衣裘、振施賓客、家無所餘。收贍名士、交結將相卿大夫甚衆。
故在位更推薦之、游者為之談説、虚譽隆洽、傾其諸父矣。敢為激發之行、處之不慙恧。
兄永為諸曹、蚤死、有子光、莽使學博士門下。莽休沐出、振車騎、奉羊酒、勞遺其師、恩施下竟同學。諸生縱觀、長老嘆息。
光年小於莽子宇、莽使同日内婦、賓客滿堂。須臾、一人言太夫人苦某痛、當飲某藥、比客罷者數起焉。
嘗私買侍婢、昆弟或頗聞知、莽因曰「後將軍朱子元無子、莽聞此兒種宜子、為買之。」即日以婢奉子元。其匿情求名如此。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)


その後、王莽の叔父の成都侯王商が王莽に自分の領土を一部分け与えたいと願い出、また長楽少府戴崇・侍中金渉・胡騎校尉箕閎・上谷都尉陽並・中郎陳湯といった当時の名士たちがみな王莽を誉めたので、成帝も王莽を優秀だと思うようになった。



永始元年、成帝は王莽を新都侯とした。南陽郡新野県の都郷を新都侯国としたもので、千五百戸を領有した。



騎都尉・光禄大夫・侍中に昇進し、実直に皇帝に側仕えした。爵位が高くなればなるほど言行はますます節度を保つようになった。下賜された衣服や馬車なども金に換えて賓客に振る舞い、家に残すものはなかった。名士たちにも惜しげなく与え、沢山の官僚・将帥らと交友関係を結んだ。

それ故に多くの者が王莽を推薦し、遊説の徒も王莽を誉めたため、実体のない名声が高まり、王莽の叔父たちを超えるほどであった。また敢えてスタンドプレーも行って恥じるところがなかった。



王莽の兄の王永は諸曹になったが早死にした。子の王光が残されたが、王莽は王光のために最高学府の博士の元で学ばせ、王莽の休暇の際には馬車を連ねてその学問の師を訪ねて慰労し、同じ学生たちにも施しを与えた。学生たちはそれを眺め、長老たちは嘆息した。



王光は王莽の長男の王宇より年下だったが、王莽は王光と王宇を同時に結婚させ、結婚式は屋敷が客でいっぱいになった。少しすると「母が薬を飲まなければいけないので」などと言って中座する者が出てきたが、その都度王莽はその客の見送りのために席を立って見送った。



また王莽はかつて婢女を買い求めたことがあったが、親戚がそれを聞きつけたと知ると、王莽は「後将軍の朱子元(朱博)どのが後継ぎに恵まれないと聞いたので、この婢女は子供ができやすいということで朱子元どのに進呈しようと思って買い求めたのだ」と言い、即日朱博にその婢女を贈ったという。



王莽はこのようにして本心を隠して名声を求めた。



王莽に自分の領地を分け与えようとしたという王商は最終的には大司馬大将軍にまでなった人物で、王鳳・王音の次に執政となった。王莽はいわばその時の王氏の当主に気に入られていたのである。



また、王莽を推薦したと言う人物のうち、金渉というのはあの金日磾の弟の子孫であり、王莽の母方の縁戚であったりする



また中郎陳湯というのはあの陳湯のことである。

湯前為騎都尉王莽上書言、「父早死、獨不封、母明君共養皇太后、尤勞苦、宜封竟為新都侯。」
後皇太后同母弟苟參為水衡都尉、死、子伋為侍中、參妻欲為伋求封、湯受其金五十斤、許為求比上奏。
弘農太守張匡坐臧百萬以上、狡猾不道、有詔即訊、恐下獄、使人報湯。湯為訟罪、得踰冬月、許謝錢二百萬、皆此類也。
(『漢書』巻七十、陳湯伝)


上記のとおり、陳湯は金と引き換えに口利きや弁護をするような人物(高名な人物ではあるので影響力はある)なのだ、とされており、王莽の件もその一つだということらしい。




また後将軍朱子元とは最終的に丞相になった朱博のことであり、彼には女子はいたが男子がいなかったことは『漢書』朱博伝にも記載されている。

このままでは彼の家が断絶になるということで、王莽は「子供ができやすい」女性を勧めた、ということである。

まあ、朱博は結局罪に問われて自殺するので結局断絶するわけだが。