復讐するは我にあり

(蘇)不韋時年十八、徴詣公車、會(蘇)謙見殺、不韋載喪歸郷里、瘞而不葬、仰天嘆曰「伍子胥獨何人也!」
乃藏母於武都山中、遂變名姓、盡以家財募劒客、邀翬於諸陵輭、不剋。
會翬遷大司農、時右校芻廥在寺北垣下、不韋與親從兄弟潛入廥中、夜則鑿地、晝則逃伏。
如此經月、遂得傍達翬之寢室、出其牀下。値翬在廁、因殺其妾并及小兒、留書而去。
翬大驚懼、乃布棘於室、以板籍地、一夕九徙、雖家人莫知其處。毎出、輒劒戟隨身、壮士自衛。
不韋知翬有備、乃日夜飛馳、徑到魏郡、掘其父阜冢、斷取阜頭、以祭父墳、又標之於市曰「李君遷父頭」。
翬匿不敢言、而自上退位、歸郷里,私掩塞冢椁。捕求不韋、歴歳不能得、憤恚感傷、發病歐血死。
(『後漢書』列伝第二十一、蘇不韋伝)

後漢の時、蘇不韋という青年がおり、その父蘇謙が李翬という者の逆恨みによって殺された。




息子としては父の仇を討たずにはおれないわけで、蘇不韋は家財をなげうって親族と共に仇の李翬を付け狙った。


ちなみに李翬は実力者の宦官と結び、本人も大臣クラスという大物である。




最初は暗殺者を雇ったようだが果たせず、今度は李翬の住居の傍から密かにトンネルを掘るという方法に切り替えた。




そのトンネルから住居へ侵入した蘇不韋らは、本人には会えなかったが、妾と子供(その妾が生んだのだろう)に遭遇したため、妾と子供を殺して犯行声明を残して戻った。




李翬は住居の床に板や逆茂木を仕掛けてトンネル作戦を封じ、出歩く時も屈強なボディーガードを付けた。



そこで直接本人を狙うことが出来ないと考えた蘇不韋は李翬の故郷魏郡へ行き、李翬の父の墓を暴いてその遺体の首を取って自分の父蘇謙の墓に供えたのだった。




李翬は職も辞してひそかに父の墓をもとに戻し、蘇不韋を探したが見つからず、最後には怒りと悲しみから病を発して死んでしまったという。






蘇不韋の仇討ちはこのようにして成功したわけだが、直接的には罪のない妻子や既に死んでいる父の遺体さえも復讐の対象となるというのだから、現代のわれわれからするとすさまじい。



更には、父の死亡時には蘇不韋はまだ十八歳だったと書かれているから、彼は青春のかなりの部分を極めて血なまぐさい復讐に費やしたということになるのだろう。





遺体損壊まで行ったことについては当時から議論があったようであるが、弁護した有名人もいたようなので、当時としては壮挙と考える者も少なくなかったようだ。





ちなみにあの十九年間も拘留され続けてもなお節を曲げなかった蘇武の同族であるそうだ。


百年単位で離れているので一概には言えないが、家風として苛烈な部分があった、という評価もできるのかもしれない。