成都の禁令

建初中、遷蜀郡太守、其俗尚文辯、好相持短長、范毎窅以淳厚、不受偷薄之説。成都民物豐盛、邑宇逼側、舊制禁民夜作、以防火灾、而更相隱蔽、燒者日屬。范乃毀削先令、但嚴使儲水而已。百姓為便、乃歌之曰「廉叔度、來何暮?不禁火、民安作。平生無襦今五絝。」
(『後漢書』列伝第二十一、廉范伝)

後漢の蜀郡成都はどうやら人口密度が高く、家々が連なっているため火事が起こると延焼による被害が大きく、残業を禁止(=灯火を使わせない)して火事を防いでいた。


だが実際にはみな隠れて残業を行っており、火災が起こっても責任追及を恐れて隠蔽してしまうので、大火災が起こることは変わらないということだったようだ。




新たに蜀郡太守となった廉范はその禁令を止め、防火用水の用意を厳命するに留めたという。





民にとってはその方が便利であったため、「廉太守がやってくるのがなんと遅かったことか!火を禁止しなかったお蔭で裕福になった」と歌ったのだそうだ。




禁令が余計に被害を拡大させていたらしい、というのは興味深い。