成都炎上

(公孫)述以兵屬延岑、其夜死。明旦、岑降呉漢。乃夷述妻子、盡滅公孫氏、并族延岑。遂放兵大掠、焚述宮室。
(『後漢書』列伝第三、公孫述伝)

王莽の新王朝の体制が崩れた時代に蜀で自立し皇帝を名乗った公孫述は、光武帝の将である呉漢によって討たれ、その都とされていた成都は呉漢によって略奪され、宮殿は焼かれたという。




成都既拔、(張)堪先入據其城、撿閲庫藏、收其珍寶、悉條列上言、秋毫無私。慰撫吏民、蜀人大悦。
(『後漢書』列伝第二十一、張堪伝)


その際、呉漢と共に公孫述を討った一人である張堪は蜀郡太守であったが、呉漢より先に成都に入城して公孫述の所持していた財宝の類を全て接収し、少しもかすめ取ることなくお上に報告した、という。




この二つの記事をそれぞれ信じるなら、呉漢は公孫述を討ち残党の降伏を受け入れた後、太守に任命されていた張堪に成都を接収させ、それから呉漢自身が入城して略奪と破壊を行った、ということになるのだろう。



張堪が財宝をあらかたお上に送ってしまったがために他からの「接収」が激しくなったのでは、などというのは穿ちすぎか・・・。





あと、張堪は蜀の人間を慰撫して人々が大いに喜んだというのは呉漢の所業と矛盾する気もするが、事後処理を上手くやったということなのだろうか・・・?


それとも、蜀郡の中でも呉漢軍の被害を受けなかった人々は喜んだということだろうか。