英布の称号

漢三年・・・(中略)・・・於是殺使者、因起兵而攻楚。
楚使項聲・龍且攻淮南、項王留而攻下邑。數月、龍且撃淮南、破(英)布軍。布欲引兵走漢、恐楚王殺之、故輭行與何倶歸漢。
(『史記』巻九十一、黥布列伝)

淮南王至、上方踞牀洗、召布入見、布大怒悔來、欲自殺。出就舍、帳御飲食從官如漢王居、布又大喜過望。
於是迺使人入九江。楚已使項伯收九江兵、盡殺布妻子。
(『史記』巻九十一、黥布列伝)

四年七月、立布為淮南王、與撃項籍。
(『史記』巻九十一、黥布列伝)


昨日の話の補足だが、九江王だった英布(黥布)は高祖三年に項羽から漢の高祖劉邦へと鞍替えした。



項羽の兵に攻められた英布は密かに高祖の元へ逃げ、一方英布の領土である九江は項伯によって制圧され、残された妻子も殺されたという。



そして翌四年に漢の高祖は英布を淮南王に立てた。




こうして見ると、実質的には項羽から受け取った形になる九江王の地位は、項羽から背き、更に領土を捨てて逃げた時点で実質を失ったことになるのかもしれない。




しかし、漢の高祖としては自分と同等に限りなく近い厚遇をする上で、もはや項羽時代の「九江王」とも呼びにくいが新たに王として封建すべき領土が無い、ということで、便宜的に「武王」という雅号で呼んだ、という感じだろうか。





ところで、英布の妻子を殺しているのは項伯であるようだが、どちらも漢の高祖に付いている。



この両者に遺恨は発生しなかったのだろうか。