幸福な愚者

居文帝喪、哀毀過禮、杖而後起。左右以稻米乾飯雜理中丸進之、(司馬)攸泣而不受。太后自往勉喻曰「若萬一加以他疾、將復如何!宜遠慮深計、不可專守一志。」常遣人逼進飲食、司馬嵇喜又諫曰「毀不滅性、聖人之教。且大王地即密親、任惟元輔。匹夫猶惜其命、以為祖宗、況荷天下之大業、輔帝室之重任、而可盡無極之哀、與顔閔爭孝!不可令賢人笑、愚人幸也。」喜躬自進食、攸不得已、為之強飯。
(『晋書』巻三十八、斉献王攸伝)

晋の武帝の弟、斉王司馬攸は父である司馬昭の死に際して礼制を超える服喪を行い、杖をつかなければ歩けないほどであったという。



この時代の服喪は真面目に行うと苦行僧のメニューのようになるので、ガチるとそうなってしまうのである。





そこで、部下の嵇喜が「天下の重責を担う身で命を危うくして、賢明な者に笑われ、愚か者を幸福にしてしまってはいけません」と説得したため、斉王も食事を取るようになったのだそうだ。






この文脈で行くと、「斉王司馬攸が死んでしまった方が幸福になれる愚か者」がどこか身近にいるかのように感じる。



嵇喜はいったい誰を想定していたのだろうか。