司馬遷の書を読んでみよう9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160620/1466351222)の続き。今回も短縮版。



事未易一二為俗人言也。僕之先人非有剖符丹書之功、文史星暦近乎卜祝之間、固主上所戲弄、倡優畜之、流俗之所輕也。假令僕伏法受誅、若九牛亡一毛、與螻螘何異?而世又不與能死節者比、特以為智窮罪極、不能自免、卒就死耳。何也?素所自樹立使然。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

事は世俗の人に対して語るには簡単ではない。


僕の先祖はとこしえに記録されるような功績があったわけでもなく、星暦を司っていたために占い師・祈祷師と似た存在と思われており、もとより主君には役者・道化の類として養われる身分であり、世間では軽んじるところだった。


そのような僕が誅殺されたとしても、これは九頭の牛の一本の毛が抜かれるようなものだ。オケラや蟻と何の違いがあろうか。


また、世間では辱めを受けず節を守って死ねない者が少なくないが、それはただ知恵に詰まり罪を逃れられず、自業自得で死に至っているだけである。それは何故か?節というものがそうなっているのだ。




司馬遷は続いて「自分が誅殺されたところでこの世には何の影響もない」と述べ、更に「世間では節を守って死ねる者は少ない」と言う。





司馬遷もまた「節を守って死ねなかった」者である。



彼は「節を守って死ぬ」ということについて任安(投獄中)に語ろうとしているのである。