司馬遷の書を読んでみよう7

その6(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160617/1466091231)の続き。




夫僕與李陵倶居門下、素非相善也、趣舍異路、未嘗銜盃酒接殷勤之歡。然僕觀其為人自奇士、事親孝、與士信、臨財廉、取予義、分別有讓、恭儉下人、常思奮不顧身以徇國家之急。其素所畜積也、僕以為有國士之風。
夫人臣出萬死不顧一生之計、赴公家之難、斯已奇矣。今舉事壹不當、而全軀保妻子之臣隨而媒孽其短、僕誠私心痛之。
且李陵提歩卒不滿五千、深踐戎馬之地、足歴王庭、垂餌虎口、膻挑彊胡、卬億萬之師、與單于連戰十餘日、所殺過當。虜救死扶傷不給、旃裘之君長咸震怖、乃悉徴左右賢王、舉引弓之民、一國共攻而圍之。轉鬬千里、矢盡道窮、救兵不至、士卒死傷如積。然李陵一呼勞軍、士無不起、躬流涕、沬血飲泣、張空弮、冒白刃、北首爭死敵。
陵未沒時、使有來報、漢公卿王侯奉觴上壽。後數日、陵敗書聞、主上為之食不甘味、聽朝不怡。大臣憂懼、不知所出。僕竊不自料其卑賤、見主上慘悽怛悼、誠欲効其款款之愚。
(『漢書』巻六十二、司馬遷伝)

そもそも、僕と李陵は同じ門下にいたとはいえ、特に付き合いがあったわけではなく、一緒に飲みに行くこともなかった。しかし僕は彼のひととなりを知って孝行、信義、清廉さ、謙譲といった徳を備えた人物と思い、自分の身を顧みず国難に赴くような者であると考え、国士であると思っていた。


人臣が生きては帰れぬ作戦を願い出て国家の危難に赴いたというなら、それだけで素晴らしいことである。しかるに後方にいて我が身も妻子も無事である臣たちが足を引っ張って讒言するのを、僕は大変心を痛めていた。


李陵は五千にも満たない歩兵のみで匈奴の地に足を踏み入れて大軍に立ち向かい、単于と十日以上連戦して殺害数は相手を上回った。


匈奴は戦傷者の治療も間にあわず、単于も皆恐怖に震えあがって左右賢王を呼び、一国を挙げて李陵を攻めた。千里に渡って転戦するうちに矢も尽き逃げ場も無くなり、救援も来ず、死傷者が山のように積まれる有様であった。だが李陵が一度呼びかけると立ち上がらぬ者は無く、接近戦を挑んで渡り合ったのである。


李陵が降伏する前に使者が勝報を伝えた時には漢の大臣や王侯たちはそれを祝って乾杯していたのに、李陵の敗戦が報じられて陛下が何を食べても美味しくないというほどふさぎ込んでいるのに対して、大臣たちは恐れおののくばかりでなすすべが無かった。


僕は陛下の大きな悲しみを見て、自分の卑賎な身を顧みずに真心を示そうと思ったのである。




司馬遷は李陵が匈奴に降伏した経緯を語り、同時に自分が彼を弁護した理由を説明する。




司馬遷によると李陵とは仲が良かったわけでもなかったが、その人物に感銘を受けていたのだという。



この部分で注意すべきは、「公卿王侯」すなわち漢の朝廷の宰相や大臣たち、そして王侯といった貴族たちにかなり批判的であるということだろう。


司馬遷によると、彼らは自分や家族を失うわけでもない安全な場所にいて実際に戦う者を妨害し、肝心な時には何もできないような連中なのだ、ということになる。



おそらくは李陵の時の経緯の後ろには、司馬遷自身に対して大臣たちがした仕打ちが批判対象として入っているのだろう。




そして、武帝のために使者となるなど、武帝の側近として働いてきた任安もまた、司馬遷にとっては「公卿」の一部として批判したい対象だったかもしれない。





「国士であった李陵や僕のことを助けなかった君が賢者を推挙せよとは、どの口が言っているんですかねえ・・・?」という、司馬遷から任安への痛烈なしっぺ返しこそが司馬遷の言いたいことだったのではないだろうか・・・?