司馬遷と武帝

上以遷誣罔、欲沮貳師、為陵游説、下(司馬)遷腐刑。
(『漢書』巻五十四、李陵伝)

司馬遷といえば、李陵を弁護したところ李広利の軍を妨害するものとされて去勢されたことで有名である。




而華覈連上疏救(韋)曜曰・・・(中略)・・・昔李陵為漢將、軍敗不還而降匈奴司馬遷不加疾惡、為陵遊説、漢武帝以遷有良史之才、欲使畢成所撰、忍不加誅、書卒成立、垂之無窮。
(『三国志』巻六十五、韋曜伝)

だが一方、三国時代、かの孫晧によって獄へ送られた史家の韋曜(韋昭)を弁護した華覈は「司馬遷は李陵を弁護したが、漢の武帝司馬遷に史家としての才能があることをから、彼の史書を完成させようと思い、司馬遷を誅殺しないでやり、史書を完成に導いた」と言っている。




つまり、司馬遷の『史記』完成のために武帝は死刑を宮刑減刑してやったのだ、ということになるのだろう。このような解釈は上記『漢書』の記すところとは異なっている。




こういう解釈(風聞)が三国時代当時にあったのか、それとも韋昭を救うために史実を捻じ曲げてでも主君を説得しようとしたものなのか、どちらなのだろうか。