西域へ逃亡

令狐氏出自姬姓。周文王子畢公高裔孫畢萬、為晉大夫、生芒季。芒季生武子魏犫。犫生顆、以獲秦將杜回功、別封令狐、生文子頡、因以為氏、世居太原。
秦有太原守五馬亭侯範、十四世孫漢建威將軍邁、與翟義起兵討王莽、兵敗死之。三子、伯友・文公・稱。皆奔燉煌。伯友入龜茲、文公入疏勒、稱為故吏所匿、遂居効轂。稱六子、扶・堅・由・羨・瑾・猛。由字仲平、後漢伊吾都尉。・・・(後略)・・・
(『新唐書』巻七十五下、宰相世系表五下、令狐氏)

「王莽に逆らい反旗を翻した翟義と一緒任戦って敗死した」という『漢書』では見られない人物が出現するというのは、まあこの手の系図ではありがちなことではあるのだけれど、「その子たちは西域にまで逃げて難を逃れた」とされているのは割と珍しいかもしれない。



それ以降の子孫は前涼に仕えたりしているので、太原の著姓である令狐氏が西域方面にいることに対する説明として、系図上「逃げてここまで来た」が必要だったのかも。