武帝の乳母

武帝時有所幸倡郭舍人者、發言陳辭雖不合大道、然令人主和説。
武帝少時、東武侯母常養帝、帝壯時、號之曰「大乳母」。率一月再朝。朝奏入、有詔使幸臣馬游卿以帛五十匹賜乳母、又奉飲糒飧養乳母。乳母上書曰「某所有公田、願得假倩之。」帝曰「乳母欲得之乎?」以賜 乳母。乳母所言、未嘗不聽。有詔得令乳母乗車行馳道中。當此之時、公卿大臣皆敬重乳母。
乳母家子孫奴從者膻暴長安中、當道掣頓人車馬、奪人衣服。聞於中、不忍致之法。有司請徙乳母家室、處之於邊。奏可。乳母當入至前、面見辭。乳母先見郭舍人、為下泣。舍人曰「即入見辭去、疾歩數還顧。」 乳母如其言、謝去、疾歩數還顧。郭舍人疾言罵之曰「咄!老女子!何不疾行!陛下已壯矣、寧尚須汝乳而活邪?尚何還顧!」於是人主憐焉悲之、乃下詔止無徙乳母、罰謫譖之者。
(『史記』巻一百二十六、滑稽列伝、褚先生補)

漢の武帝の時のこと。



漢の武帝の乳母は武帝即位後にその旧恩から厚遇されていたが、乳母の家の者たちが乳母の威光を笠に着て長安で色々とヤンチャをやらかしまくったために武帝の怒りを買って処罰を受け、乳母は辺境へ強制移住させられることとなった



それを避けたい乳母は最後に武帝に別れを告げる前に武帝の近臣である郭舎人に相談した。



すると郭舎人は「お別れを言ったら走り去って、その途中で何度か陛下の方を振り返り見るのがよろしかろう」と乳母へ助言した。



乳母がそれを実行したところ、武帝が何か言い出すより先に当の郭舎人が「このババァはなぜ早く出て行かないのだ!陛下は既に成長している。もうお前の乳を飲む必要などないのだぞ!」と乳母を罵倒したのだった。



それを聞いて武帝は乳母に対して憐みの情が湧き、乳母を助けてやることにしたという。







乳母を敢えて激しく罵倒することで、武帝に対して「これは乳母の恩を無視するという恩知らずな行為ではありませんか」と無言のうちに気付かせた、ということだろうか。



彼は一種の道化のような存在らしいが、これは道化らしい君主操縦法と言えるかもしれない。