十二月、呉大將軍諸葛恪拒戰、大破衆軍于東關。不利而還。
(『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平四年)
晋の文帝こと司馬昭は新城郷侯になっていたが、嘉平四年の呉との戦いに敗れた罰としてその列侯の地位を剥奪された。
武皇帝諱炎、字安世、文帝長子也。𥶡惠仁厚、沈深有度量。魏嘉平中、封北平亭侯、歴給事中・奉車都尉・中壘將軍、加散騎常侍、累遷中護軍・假節。
(『晋書』巻三、武帝紀)
一方、司馬昭の長男である晋の武帝司馬炎は、嘉平年間に北平亭侯になったという。
嘉平のいつなのかはっきりしないのが残念だが、この司馬昭と司馬炎の爵位はちょっと面白い。
司馬昭が爵位を失って息子の司馬炎の方が爵位では上になった可能性があるし、もし司馬炎が列侯になったのが司馬昭が列侯であった時だとしたら、司馬炎は司馬昭の後継ぎの座からは外れた形になっていたかもしれないからだ*1。
また、もしかしたら司馬昭が爵位を失うと同時に司馬炎に爵位を与えられたという可能性もあるかもしれない。特別に根拠はないが。