三国志の時代、「匈奴」「烏丸(烏桓)」「鮮卑」といった、中華の民から見ると異民族に当たる集団が辺境や内地に存在していた。
そんな異民族の中に、「王」や「侯」と呼ばれる者がいて、しかも漢王朝や魏王朝などに服属してもなお「王」と呼ばれ続けている場合がある。
しかし、以前の記事で紹介したように、「王」というのは漢王朝における劉氏の専売特許(一部例外)ではなかったのか。
そこを疑問に思った人もいたのではなかろうか。
四夷國王、率衆王、歸義侯、邑君、邑長、皆有丞、比郡・縣。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)
後漢の制度では、いわゆる異民族の君主、族長には「国王」「率衆王」「帰義侯」「邑君」「邑長」といった称号が与えられたという。
つまり、異民族の「王」も後漢の制度上でも認められた存在だが、劉氏だけがなれる「諸侯王」とは別の存在なのである。
英雄記曰、(袁)紹遣使即拜烏丸三王為單于、皆安車・華蓋・羽旄・黄屋・左纛。版文曰「使持節大將軍督幽・青・并領冀州牧阮鄉侯紹、承制詔遼東屬國率衆王頒下烏丸遼西率衆王蹋頓・右北平率衆王汗盧維・・・(後略)・・・
(『三国志』巻三十、烏丸伝注引『英雄記』)
例えば、袁紹はかの有名な蹋頓に対して「遼西率衆王」という称号を用いている。
これも、上記の「率衆王」のことと考えて間違いないだろう。
これも、蹋頓が勝手に劉氏しかなれないはずの王を名乗ったとかいうのではなく、少なくとも「率衆王」に関しては異民族に公式に与えられることのある漢王朝の正式な称号ということなのである*1。