本注曰、凡初即位、未有太子、官屬皆罷、唯舍人不省、領屬少府。
(『続漢書』志第二十七、百官志四)
昨日の記事の引用の最後に、こういう文があった。
皇太子の官吏は、皇太子が置かれていない時は任命されないのだが、太子舎人は任命されて少府に属するのだと。
これで、ひとつ疑問が解けた。
中護軍賈充又逆帝戰於南闕下、帝自用劍。衆欲退、太子舍人成濟問充曰「事急矣。當云何?」充曰「畜養汝等、正謂今日。今日之事、無所問也。」濟即前刺帝、刃出於背。
(『三国志』巻四、高貴郷公紀、甘露五年、注引『漢晋春秋』)
あの高貴郷公が殺される事件の際、高貴郷公を殺害したのは太子舎人の成済という者だった。
この時期、皇太子はいなかったはずなのに太子舎人がいたのか、と少し疑問だったのだが、やっとわかった。
上記の制度があったため、太子舎人は皇太子の有無にかかわらず任命されていたのだ。
ただ、何で太子舎人が中護軍の部下か何かみたいになっているのかはよくわからないままだ。
こういった有事には中護軍が太子舎人も率いるような決まりになっていたのか、緊急時ということで本来の制度を無視して武装していたであろう太子舎人(中郎のように宿衛が仕事)を駆り出していたのか、それとも私的な恩顧の関係があったということなのか。
もし最後の私的な関係によるものだとすると、司馬昭らは太子舎人という宮中の目立たないところに「いざとなれば皇帝を刺し貫くことも辞さない衛士」を配置していたと考えることもできるかもしれない。