三国志はじめての官職:太僕

「九卿」の中には色々な官庁があり、その中には軍事色が強い官庁ももちろんある。



「太僕」はその筆頭であろう。



太僕、卿一人、中二千石。
本注曰、掌車馬。天子毎出、奏駕上鹵簿用。大駕則執馭。
丞一人、比千石。

考工令一人、六百石。
本注曰、主作兵器弓弩刀鎧之屬、成則傳執金吾入武庫、及主織綬諸雜工。
左右丞各一人。

車府令一人、六百石。
本注曰、主乘輿諸車。
丞一人。

未央廄令一人、六百石。
本注曰、主乘輿及廄中諸馬。
長樂廄丞一人。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)


太僕」とは馬車や騎馬を統括する大臣である。



つまり馬専門ということだが、この時代の軍馬というのは現代で言うところの戦車軍用機みたいなもので、そういった軍事目的から移動・輸送手段、さらには早馬による高速通信網まで、帝国の支配全ての基礎になっているようなものだから、単なる一部門では済まない規模と権限が求められていたのだろう。


また、上記引用の「考工令」を見てもらうとわかるが、おそらくは馬という軍事の要を統括していた関係か、武器防具類の製造も「太僕」の仕事であったようだ。




なお公式行事の場で皇帝の乗る馬車を操縦する御者は九卿である「太僕」本人が務めた。



右屬太僕。
本注曰、舊有六廄、皆六百石令、中興省約、但置一廄。
後置左駿令・廄、別主乘輿御馬、後或并省。又有牧師菀、皆令官、主養馬、分在河西六郡界中、中興皆省、唯漢陽有流馬菀、但以羽林郎監領。
(『続漢書』志第二十五、百官志二)


一応付け加えておくと、「太僕」は前漢においてはもっと規模が大きく、30万もの馬匹を常時養っていたと言う。



後漢ではその部門をほとんど廃止したというから、後漢前漢と比べて馬の数がかなり縮小されているということになる。




前漢やその前の秦ではかなりの数の騎兵が戦場に出てきているのに対し、後漢三国時代にはかなり騎兵が減少しているのだが、それはこういったことが影響していると思われるのである*1




*1:無論、それだけではないが。