三国志はじめての官職:秩禄

さて、今回は官職そのものではなく、官職の等級と俸給について説明してみようと思う。


師古曰「漢制、三公號稱萬石、其俸月各三百五十斛穀。其稱中二千石者月各百八十斛、二千石者百二十斛、比二千石者百斛、千石者九十斛、比千石者八十斛、六百石者七十斛、比六百石者六十斛、四百石者五十斛、比四百石者四十五斛、三百石者四十斛、比三百石者三十七斛、二百石者三十斛、比二百石者二十七斛、一百石者十六斛。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上、注)

百官受奉例、大將軍・三公奉、月三百五十斛。中二千石奉、月百八十斛。二千石奉、月百二十斛。比二千石奉、月百斛。千石奉、月八十斛。六百石奉、月七十斛。比六百石奉、月五十斛。四百石奉、月四十五斛。比四百石奉、月四十斛。三百石奉、月四十斛。比三百石奉、月三十七斛。二百石奉、月三十斛。比二百石奉、月二十七斛。一百石奉、月十六斛。斗食奉、月十一斛。佐史奉、月八斛。凡諸受奉、皆半錢半穀。
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

漢代の官職の等級は基本的には俸給の多寡と一致していて、それを「」(通常「せき」と読む)という重さの単位で表している。



つまり、貰う俸給(穀物)の重量を等級としているのである。




例えば三公は「万石」、太守は「二千石」、刺史は「六百石」であった。



この数字が大きいほど貰える俸給が多くなるということだ。




但し、実際の月給は穀物だけでは受け取らず、「半銭半穀」つまり半分は金銭によって受領するならわしであった。




なお、「二千石」だけで「太守」を指すこともあった。『三国志』でもしばしば見られる用法である。





またこの等級は、官職の制度面の区分にもなっていた。

凡吏秩比二千石以上、皆銀印青綬、光祿大夫無。秩比六百石以上、皆銅印鄢綬、大夫・博士・御史・謁者・郎無。其僕射・御史治書尚符璽者、有印綬。比二百石以上、皆銅印黄綬。成帝陽朔二年除八百石・五百石秩。綏和元年、長・相皆鄢綬。哀帝建平二年、復黄綬。
(『漢書』巻十九上、百官公卿表上)


この時代、官僚は基本的にその官職のハンコである「」と、その印のストラップである「*1を授けられるのだが、その「印」の材質や「綬」の色はこの等級によって違いがあった*2



たとえば太守なら「銀印青綬」すなわち銀の印と青い綬なのである。


舊制、令六百石以上、尚書調。拜遷四百石長相至二百石、丞相調。除中都官百石、大鴻臚調。郡國百石、二千石調。
(衛宏『漢旧儀』)

おそらく、この区分というのは任命者とも関係しているかもしれない。



少なくとも前漢の制度では、「銅印黒綬」になる六百石以上は尚書による決定、つまり勅任官ということなのだ。





これまで「二千石」「六百石」といった「秩禄」については敢えて何も言わないでいたが、引用文中には何度か出ていた筈なので、気になった人は読み返してみると新たな発見があるかもしれない(ステマ)。





*1:なお、「綬」は首吊りに使われることがあるくらい長い。

*2:当時の「印」は文書そのものに押印するのではなく、木簡などによる文書を南京玉すだれのように巻いた上で泥で紐に封をし、そこに印を押す(文字通りの封印)という形で使用する。