三国志はじめての官職:皇帝その2

さて、前回の記事の続きとして、「皇帝」の政治的な面などについても紹介していきたい。



臣等昧死上尊號、王為『泰皇』。命為『制』、令為『詔』、天子自稱曰『朕』。
(『史記』巻六、秦始皇本紀)


先日も引用した秦の始皇帝誕生のくだりである。



ここからは、皇帝の命令が「」「」と呼ばれることがわかる。




「詔」は現代日本でも使われている語なのでわかるだろう。





これらの命令はもちろん当時の中国で最上級の命令である。



なお、法令として恒久的に守らせる約束事は「」などと呼ばれる。



いずれも、漢代あたりの基本は①「皇帝が実現したい事柄について三公・担当大臣に政策や律の内容を考えさせる」→➁「担当と三公が議論した内容を上奏する」→③「皇帝が裁可する」→④「三公を起点に役所や各地へ発布される」という形を取っている。


もちろん、➁をすっ飛ばしていきなり皇帝が命令を発することもあったし、大臣たちの議案を皇帝が気に入らなければ③で却下したり修正したりすることもあった。



先に紹介した「尚書」は①と③の段階で皇帝の仕事を助けるものと考えればいい。



中国の「最高意思決定機関」というのが皇帝の神髄であろうか。





後漢の皇帝献帝を「保護」した曹操は司空(のちに丞相)となり、腹心荀紣尚書令となった。



これにより、上記プロセスのうち①と③に荀紣が深く関与し、➁と④は曹操が粗方抑えたことになる。


曹操に対して献帝がマジ切れするほど皇帝の実権を曹操が奪っていたことが、官職の面からわかるのである。





また、最初に引用した始皇帝の件の中で「」が皇帝専用の呼称とされたことも注目すべきだろう。



皇帝は特別なので、公式な場での一人称は「朕(ちん)」と決められていて、他の者は使わないことになっている。



「朕は国家ナリ」とか「チンだボディだボディだチンだ!」とかいった形で最近でも見る言葉である。





正妻を「皇后」、後継者を「皇太子」と呼んでいるが、この辺は現代日本がその制度を残しているので言うまでもないかもしれない。




あと、ここではあまり詳しく語らないが、祭政一致の世界でもあった当時の中国において、皇帝は各種国家祭祀を執り行う責任者、最高神官的な側面もあったことは一応覚えておいて損はないと思う。