三国志はじめての官職:尚書

昨日の記事では「尚書令」を紹介したが、「令」とは当時は多くの場合「長官」を指す。


つまり「尚書令」は「尚書」の長官ということ(昨日紹介するのを忘れていたが「尚書僕射」はその副官・次官というべき存在である)である。


ということで「尚書」についても紹介する。



尚書六人、六百石。
本注曰、成帝初置尚書四人、分為四曹。常侍曹尚書主公卿事。二千石曹尚書主郡國二千石事。民曹尚書主凡吏上書事。客曹尚書主外國夷狄事。世祖承遵、後分二千石曹、又分客曹為南主客曹・北主客曹、凡六曹。
左右丞各一人、四百石。
本注曰、掌録文書期會。左丞主吏民章報及騶伯史。右丞假署印綬、及紙筆墨諸財用庫藏。
侍郎三十六人、四百石。
本注曰、一曹有六人、主作文書起草。
令史十八人、二百石。
本注曰、曹有三、主書。後筯劇曹三人、合二十一人。
(『続漢書』志第二十六、百官志三)

昨日述べたような「皇帝の秘書」の実務を扱ったのがこの「尚書」とその部下たちである。



尚書は「常侍曹尚書」「二千石曹尚書」といった風に職分ごとに区切られ、それぞれの分野を担当する形であった。


そこには「尚書侍郎」(尚書郎)などの部下が付く。




その分野ごとの皇帝の専決事項に属する政務を処理し、実質的に決定していたのが尚書であったのである。



これは、例えば現代の市役所の仕事はほとんど全て市長の名前で命令や決定をしているが、実際には担当の課が決めている、というようなものだ。




またここに書かれている以外にも、例えば「選曹尚書」などといった尚書も作られていったようだ。





この「尚書」は前漢末期になって大きな規模の存在となり、後漢になって更に重要度と職務を増大させていったという経緯がある。そして三国時代、その後とまた更に増大していると言っていい。



皇帝が政治を執り行うのをもっとも近くで助けたり分担したりする存在なので当然とも言えるが、重要度と重労働が次第に強まっている官職であったことには注意すべきだろう(魏・晋の尚書のブラックさを示す資料もある)。