許昌城外仮設宮殿

時大興洛陽宮室、車駕便幸許昌、天下當朝正許昌許昌偪狹、於城南以氈為殿、備設魚龍曼延、民罷勞役。(鍾)毓諫、以為「水旱不時、帑藏空虚、凡此之類、可須豐年。」又上「宜復關内開荒地、使民肆力於農。」事遂施行。
(『三国志』巻十三、鍾毓伝)

畜生長男こと鍾毓が黄門侍郎であった烈祖明皇帝の時代のこと。



洛陽が宮殿の造営中であったことから烈祖様は許昌へ出かけ、そこで皇帝のもとに諸侯群臣が集うこととなった。



だが許昌はそれには手狭だったので、城の南側に毛織物で囲った仮設の宮殿を作り、魚や竜(装飾品のことか?)が切れ目なく延々と続いていた。


城の中だけでは入りきらないからおんもでやる、ということだろう。



民はそのために徭役などの負担を強いられて疲弊していたという。





許昌というのは、言うまでもないだろうが建安年間に献帝がいた許県のことである。



当時も漢王朝の皇帝がいたはずだが、許昌が手狭であったというのは興味深い。



当時よりも人口が増えるなどして手狭になったのか、それとも曹操献帝を連れてきた時から手狭だったのか。



ここだけではわからないが、ちょっと面白いかもしれない。