本紀か伝か

又(孫)晧欲為父和作紀、(韋)曜執以和不登帝位、宜名為傳。
(『三国志』巻六十五、韋曜伝)

呉末期の韋昭(韋曜)は皇帝の孫晧から孫和の「本紀」を作れと言われたが、孫和は帝位に登っていないので「本紀」とすることはできない、「伝」とすべきである、と主張したという。





じゃあ韋昭が『三国志』編者だったら帝位に登ることのなかった曹操を「本紀」とすることはなかったということなのかなあ。


というか呉の国史の中だけでも孫堅の扱いで揉めるんじゃないだろうか・・・。