愛と憎しみと子供五人

ツイッター上で@Jominian氏とやりとりしていて初めて合点がいく解釈ができたこと。



景懷夏侯皇后諱徽、字媛容、沛國譙人也。父尚、魏征南大將軍、母曹氏、魏徳陽郷主。
后雅有識度、帝毎有所為、必豫籌畫。魏明帝世、宣帝居上將之重、諸子並有雄才大略。后知帝非魏之純臣、而后既魏氏之甥、帝深忌之。青龍二年、遂以鴆崩、時年二十四。葬峻平陵。武帝登阼、初未追崇、弘訓太后毎以為言、泰始二年始加號諡。后無男、生五女。
(『晋書』巻三十一、景懐夏侯皇后伝)

景皇帝諱師、字子元。宣帝長子也。雅有風彩、沈毅多大略。少流美譽、與夏侯玄・何晏齊名。晏常稱曰「惟幾也能成天下之務、司馬子元是也。」魏景初中、拜散騎常侍、累遷中護軍。
(『晋書』巻二、景帝紀

(夏侯)玄字太初。少知名、弱冠為散騎黄門侍郎。嘗進見、與皇后弟毛曾並坐、玄恥之、不悦形之於色。明帝恨之、左遷為羽林監。
(『三国志』巻九、夏侯玄伝)

司馬師は二十四歳にして子供五人産ませた夏侯夫人を毒殺したとされるが、その時期は魏の烈祖明皇帝陛下の時代であったという。




正直、この時期の司馬懿らを夏侯氏が警戒したというのはちょっと早漏ではなかろうか。



既に軍事部門の重鎮とはいえ、烈祖様に万一のことでもなければ国の乗っ取りまで心配するような状況には思えないからだ。





だが、夏侯氏が死んだ景初年間に司馬師が位を得たという話を総合して考えると、「夏侯氏が死ぬことが司馬師が任官される条件」であったかもしれない、という仮説が生まれる。




そして、そんなエグイ条件の裏にあるものが何か考えてみると、「夏侯氏の兄である夏侯玄は烈祖様にメチャ嫌われた」という一件があるではないか。




烈祖様から見れば憎き夏侯玄の義理の兄弟である司馬師も同類であり、少なくとも左遷や任官拒否の対象だったのだとしても何の不思議もない。



そんな司馬師が世に出るためには、「私は夏侯玄の野郎とは縁を切りました」ということを行動で示す必要があったことになるだろう。



つまり、その説に従えば、司馬師が妻を毒殺したのは官界に出るためであり、それは烈祖様の夏侯玄への憎しみが原因だったということになる。



あと、夏侯玄の父である夏侯尚といえば烈祖様の法律上の父である曹丕と大の仲良しだったので、烈祖様はそれが元々気に食わなかったりしたかもしれない。