新野県の都郷

永始元年、封(王)莽為新都侯、國南陽新野之都郷、千五百戸。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽が封建されて列侯になったときの王莽の領国「新都侯国」は「南陽郡新野県の都郷」であった。



「新」野の「都」郷ということで「新都侯」である。




昨日までの「都郷」についての推論をベースに考えると、新野県の「県庁所在地」を新都侯国として独立させ、残りだけを新野県としたということになる。





そうなると、それ以降の新野県は「県庁所在地」を失ったわけだが、どうなってしまったのであろうか。






実はちゃんとそのことについて推測できる記録がある。


新野。有東郷、故新都。有黄郵聚。
(『続漢書』志第二十二、郡国志四、荊州

後漢の新野県の記録を見ると、元の新都すなわち王莽の領国だったところは「東郷」と呼ばれていたと書かれている。




前漢においては「都郷」だったはずなのに。





これはつまり、新野県から都郷が「新都侯国」として独立した段階で、どこか別の郷が新たに「都郷」になったのだろう。



後漢になり、王莽の新都国が取りつぶされてまた新野県に編入されたが、その時にはすでに別の「都郷」が選ばれており、以前は「都郷」であったはずの元新都国は今度は「東郷」と呼ばれるようになった、ということに違いない。