諸葛亮と陳寿

(崔)浩以其中國舊門、雖學不博洽、而猶渉獵書傳、每推重之、與共論説。言次、遂及陳壽三國志有古良史之風、其所著述、文義典正、皆揚于王廷之言、微而顯、婉而成章、班史以來無及壽者。
(毛)脩之曰「昔在蜀中、聞長老言、壽曾為諸葛亮門下書佐、被撻百下、故其論武侯云『應變將略、非其所長』。」浩乃與論曰「承祚之評亮、乃有故義過美之譽、案其迹也、不為負之、非挾恨之矣。何以云然?夫亮之相劉備、當九州鼎沸之會、英雄奮發之時、君臣相得、魚水為喻、而不能與曹氏爭天下、委棄荊州、退入巴蜀、誘奪劉璋、偽連孫氏、守窮踦■之地、僭號邊夷之間。此策之下者。可與趙他為偶、而以為管・蕭之亞匹、不亦過乎?謂壽貶亮非為失實。且亮既據蜀、恃山嶮之固、不達時宜、弗量勢力。嚴威切法、控勒蜀人、矜才負能、高自矯舉。欲以邊夷之衆抗衡上國。出兵隴右、再攻祁山、一攻陳倉、疏遲失會、摧衄而反、後入秦川、不復攻城、更求野戰。魏人知其意、閉壘堅守、以不戰屈之。知窮勢盡、憤結攻中、發病而死。由是言之、豈合古之善將、見可而進、知難而退者乎?」脩之謂浩言為然。
(『魏書』巻四十三、毛修之伝)

たぶんちょっと有名な話。




北魏の毛修之という人は、「陳寿の『三国志』サイコー」と言う崔浩に対し、「蜀の物知りじいさんたちは「陳寿諸葛亮の下で働いていて鞭で打たれた怨みから諸葛亮を低く評価した」と言ってましたよ」と言われたが、それに対して怒涛の長文レスで最近でもよく見かける論を展開して諸葛亮大したことない説をぶちかました(面倒なので詳細は省略する)。


正直、諸葛亮をdisりたくてたまらない人はこれを訳するだけで全て事足りるのではないだろうか。




毛修之は彼に圧倒されたのか、「あーうん、貴方のおっしゃる通りですね」と言ったという。






「なんだ、南北朝でも諸葛亮をあまり評価していないじゃないか」と思うかもしれないが、毛修之の当初の自説や「古老」たちの頭には「陳寿があのスゲー諸葛亮をあまり評価していない。本当ならもっと高く評価されていたはずだ」という前提があったことになるので、そこも注意すべきだろう。




ここだけではどちらが当時の主流な考え方なのかはっきりしないが、とりあえず唐代になると王朝の公式見解がどちらかというと毛修之説の方に近かったのは確かだろう。