手をとりあって

中平元年(董卓)拜東中郎將、持節、代盧植張角於下曲陽、軍敗抵罪。
其冬、北地先零羌及枹罕河關羣盜反叛、遂共立湟中義從胡北宮伯玉・李文侯為將軍、殺護羌校尉泠徵。伯玉等乃劫致金城人邊章・韓遂、使專任軍政、共殺金城太守陳懿、攻燒州郡。明年春、將數萬騎入寇三輔、侵逼園陵、托誅宦官為名。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

昨日ちょっと紹介した訒訓が心服させて外人部隊として漢の軍隊へ編入された胡の一種が「湟中義従胡」であるが、訒訓が融和に努めただけあって、後漢末においては彼ら義従胡は羌(かつて胡とは敵対した仲)および漢人の群盗、そして知識人(韓遂ら)と手を結んで漢に背き、宦官を排除するという理想を掲げるようになっていた。






まるでウォルスタ人・ガルガスタン人・バクラム人が共同でローディスに挑むみたいな感動のストーリができそうである。