河西四郡の民

秋、匈奴昆邪王殺休屠王、并將其衆合四萬餘人來降、置五屬國以處之。以其地為武威・酒泉郡。
(『漢書』巻六、武帝紀、元狩二年)

漢の武帝匈奴の王の一人昆邪王が降伏してくると、その地を武威郡・酒泉郡と命名し漢の領土としての経営を始めた。



徙天下姦猾吏民於邊。
(『漢書』巻六、武帝紀、元狩五年)

その数年後、武帝は天下の罪人、狡猾な民を辺境へ遷すよう命じた。




具体的にどういった人間を「姦猾吏民」と認定したのかはっきりわからないが、なんらかの犯罪者などが入ったであろうことは想像に難くない。





この辺境に武威・酒泉が入っていたという確証もないが、普通に考えれば経営を始めたばかりの匈奴と境を接するこの二郡が入っていないとは考えにくい。





何が言いたいかというと、武威・酒泉、そしてこの二郡から分割された張掖・敦煌を含む河西回廊の四郡は、その黎明期に移住してきた住民の多くは元罪人であった、ということだ。





中原を何らかの理由で追われた者、居場所がなくなった者が、半ば棄民のような形で集められて生まれたのが涼州の河西四郡だと考えると、後漢王朝がこの地を守り維持することについて消極的であった理由が、単なる軍事的な側面以外からも見えてくるような気がする。