匈奴と漢の逆転

其後、左谷蠡王死。明年、單于使犁汙王窺邊、言酒泉・張掖兵益弱、出兵試撃、冀可復得其地。
時漢先得降者、聞其計、天子詔邊警備。後無幾、右賢王・犁汙王四千騎分三隊、入日勒・屋蘭・番和。 張掖太守・屬國都尉發兵撃、大破之、得脱者數百人。屬國千長義渠王騎士射殺犁汙王、賜黄金二百斤、馬二百匹、因封為犁汙王。屬國都尉郭忠封成安侯。自是後、匈奴不敢入張掖。
(『漢書』巻九十四上、匈奴伝上)

時は前漢の昭帝の頃。



漢との戦いとその後の異常気象等で消耗した匈奴は漢にすり寄る姿勢を見せていたが、その一方で軍事的に何とか盛り返そうという試みもなされていたらしい。




匈奴は漢が開いたばかりの河西諸郡、酒泉や張掖に目を付けていた。



匈奴の見るところでは河西の兵は弱体化しているということで、つけ入るスキがあると考えられたようだ。





だがその戦略はすでに漢の知るところとなっており、それらの郡の辺境警備に気を付けるよう命令が下されていた。




匈奴単于に次ぐクラスの右賢王と犁汙王が4千騎を率いて攻め込んだが、張掖側は見事に返り討ちにし、その4千騎を完全壊滅状態に追い込み、副将と思われる犁汙王は漢側の騎兵に打ち取られる(数百人しか逃げおおせることができなかった)というありさまであった。





戒厳令は出されても軍備増強されたとは書かれていないので、張掖郡はおそらく1万に満たない騎兵数で迎撃に出たのではないかと思われる*1が、騎兵については専門であるはずの匈奴の4千騎を逃がさず殲滅したわけである。






漢の諜報、組織力、軍隊自体の精強さといった総合力が匈奴のそれを完全に上回ったことを示す事件だったのではないか、と思う。

*1:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120422/1335023108で記事にしているが、当時の辺境の郡は最大1万騎を率いるものであったらしい。