中牟

四年、滎陽賊數千人羣起、攻燒郡縣、殺中牟縣令、詔使(何)進弟河南尹苗出撃之。苗攻破羣賊、平定而還。詔遣使者迎於成皐、拜苗為車騎將軍、封濟陽侯。
(『後漢書』列伝第五十九、何進伝)

後漢末期の霊帝時代、洛陽からそれほど離れていない滎陽県で反乱が起こり、中牟県令を戦死させるに至ったそうな。



滎陽は項羽と劉邦が争奪の対象とした要地だし、中牟は中牟でどうやら要地だったように思う。




裴松之北征記曰「中牟臺下臨汴水、是為官度、袁紹曹操壘尚存焉。」在今鄭州中牟縣北。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀、建安五年、注)

あの官渡があったのは中牟県の区域内。




ということは、黄河の南北をつなぐ地点の一つが中牟にあったということだ。


しかも袁紹曹操が対峙するということは、たぶんそういった地点の中でも地勢的に重要であるか大規模であるか、どちらかだったのだろう。






何苗が討った賊は、もしかしたら洛陽に近い要地に陣取って、しかも黄河の南北の結節点の一つを破壊してしまうところだったのだろうか?



そう考えたら、この時の何進何苗の功績というのは意外と大きいものと言えそうな気がしてきた。