楊修の標的

漢書曰「人有白(楊)脩與臨淄侯曹植飲醉共載、從司馬門出、謗訕鄢陵侯章。太祖聞之大怒、故遂收殺之、時年四十五矣。」
(『後漢書』列伝第四十四、楊震列伝注引『続漢書』)

『続漢書』によると、かの才人楊修は曹植と共に酔って(通るべきではない)司馬門を開けさせて宮殿を出たり、曹彰を誹謗したりしていた、と曹操に告げる者がいたそうだ。



それが楊修にとって命取りになったのだという。





楊修はこの記事からもわかるように曹植に肩入れしていたことは知られているが、その彼の罪状の一つとして「曹彰を誹謗した」ことが挙げられているというのはなかなか興味深い。



楊修が曹植曹操の後継にしようと思っていたとすれば曹丕の評判を落とすことから始まりそうなものだが、曹丕の弟の曹彰の方を標的にしていたこということだ。



もちろん、この告発自体が何者かによって仕組まれたものかもしれないわけだが、なんにせよ曹植派が誹謗してでも評判を落としたい人物として曹彰の名が挙がったということになる。





曹操時代末期の曹彰は案外王座に近い存在だったのかもしれない。