オウムと全裸マン

(黄)祖長子射為章陵太守、尤善於(禰)衡。嘗與衡倶遊、共讀蔡邕所作碑文、射愛其辭、還恨不繕寫。衡曰「吾雖一覽、猶能識之、唯其中石缺二字為不明耳。」因書出之、射馳使寫碑還校、如衡所書、莫不歎伏。
射時大會賓客、人有獻鸚鵡者、射舉巵於衡曰「願先生賦之、以娯嘉賓。」衡攬筆而作、文無加點、辭采甚麗。
(『後漢書』列伝第七十下、文苑伝下、禰衡)

かの有名なヌーディスト禰衡は荊州黄祖の子である黄射の元にいたとき、献上されたオウムの賦を作ったことがあったという。




このころにはオウムはすでに上流階級の人々には知られる存在だったということだろう。





揚州・荊州益州あたりでは献上されたオウムを飼い馴らしていたとしても不思議ではないので、各界の三国志関係のクリエーター諸氏は孫堅劉備の肩にオウムを止まらせるようにしてほしい。