袁紹の私兵

光和中、國皇星東南角去地一二丈、如炬火状、十餘日不見。占曰「國皇星為内亂、外内有兵喪。」
其後黄巾賊張角燒州郡、朝廷遣將討平、斬首十餘萬級。
中平六年、宮車晏駕、大將軍何進司隸校尉袁紹私募兵千餘人、陰跱雒陽城外、竊呼并州董卓使將兵至 京都、共誅中官、對戰南・北宮闕下、死者數千人、燔燒宮室、遷都西京。及司徒王允與將軍呂布誅卓、卓部曲將郭艴・李傕旋兵攻長安、公卿百官吏民戰死者且萬人。天下之亂、皆自内發。
(『続漢書』志第十二、天文志下)


後漢霊帝が死んだとき、大将軍何進司隷校尉袁紹に募兵を命じて千人あまりを集めて洛陽城外に置いたという。





後漢書』の何進伝、袁紹伝などに載っていたかどうかよく覚えていないので、とりあえず記事にしておく。






袁紹による募兵は「私募」とあるので公式な命令ではなく何進袁紹が勝手にやったことであるらしい。



財源が必要になりそうだが、もしかすると袁紹たちの私財なのかな・・・。



とりあえず、この私兵が宦官37564に際して袁紹たちの戦力となったのではなかろうか、と思う。