司馬懿の先祖

楚漢間、司馬卬為趙將、與諸侯伐秦。秦亡、立為殷王、都河内。漢以其地為郡、子孫遂家焉。自卬八世、生征西將軍鈞、字叔平。鈞生豫章太守量、字公度。量生潁川太守儁、字元異。儁生京兆尹防、字建公。帝即防之第二子也。
(『晋書』巻一、宣帝紀


かの司馬懿の先祖に、征西将軍までなった司馬鈞というのがいたとされている。





この人物については、確かに『後漢書』などで存在を確認できる。



又使屯騎校尉班雄屯三輔、遣左馮翊司馬鈞行征西將軍、督右扶風仲光・安定太守杜恢・北地太守盛包・京兆虎牙都尉耿溥・右扶風都尉皇甫旗等、合八千餘人、又龐參將羌胡兵七千餘人、與鈞分道並北撃零昌。參兵至勇士東、為杜季貢所敗、於是引退。
鈞等獨進、攻拔丁奚城、大克獲。杜秀貢率衆偽逃。鈞令光・恢・包等收羌禾稼、光等違鈞節度、散兵深入、羌乃設伏要撃之。鈞在城中、怒而不救、光等並沒、死者三千餘人。鈞乃遣還、坐徴自殺。龐參以失期軍敗抵罪、以馬賢代領校尉事。
(『後漢書』列伝第七十七、西羌列伝)


まず司馬鈞の本官は「左馮翊」で、征西将軍は正しくは「行征西将軍」つまり代行扱いであった。



出世あるいは抜擢の結果として正式に征西将軍に任官されたわけではない。



ただ、右扶風をはじめとする太守たちを指揮監督する立場になったことは間違いない。




で、彼の軍は一度は大勝しているが、敵の西羌は偽逃であり、それに司馬鈞が率いる太守たちがひっかかった。



司馬鈞は農作物の確保を命じていたのに功を焦ったか指揮下の太守たちは司馬鈞の命令を無視して西羌と戦い、偽逃であったわけだから当然だが西羌の前に窮地に追い詰められてしまった。



そこで司馬鈞は彼らが自分の命令を無視した結果こうなったのだと知ると怒って彼らを救出しようとせず、そのため八千余の兵のうち三千を失う大打撃を受けたのだという。





この救出しないという決定はどう見ても私的な鬱憤晴らしであり、軍勢にも大被害を与えているので、当然に中央の召喚を受けて自殺する羽目になった。



つまりその件の責任を取ったということだろう。







こうして見ると司馬氏の先祖の経歴と事績もなかなか興味深い。



一応は当時の喫緊の課題である対西羌戦線に投入されたわけだから、それなりには軍事面を評価されていた人物だったのだろう。




司馬懿にもそういった能力なり性格なりが何か引き継がれていたのだとしたら面白い。