宦官と皇太后

(何)進謀積日、頗泄、中官懼而思變。張讓子婦、太后之妹也。讓向子婦叩頭曰「老臣得罪、當與新婦倶歸私門。惟受恩累世、今當遠離宮殿、情懐戀戀、願復一入直、得暫奉望太后・陛下顔色、然後退就溝壑、死不恨矣。」子婦言於舞陽君、入白太后、乃詔諸常侍皆復入直。
(『後漢書』列伝第五十九、何進伝)

かの宦官皆殺し事件の直前のこと。



太后の兄である何進とその愉快な仲間たちが宦官誅滅を企んでいると知った宦官の親玉格張譲




張譲の子の妻は皇太后の妹、つまり何氏であったという。





当時の宦官が陰に陽に権力を持ち続けていられた理由の一つは、こうやって皇太后やらと姻戚となって一蓮托生の関係になっていたというのもあるのかもしれない。



当時の宦官と皇后や皇太后は、ただ仕えると言うだけの関係ではなくて、親戚や姻戚関係が裏に張り巡らされた複雑な関係だったということが言えそうだ。






曹操たちの曹氏も霊帝の最初の皇后宋氏と姻戚になっていたことも考え合わせて見ると、ある程度の地位を得た宦官たちはそれぞれが皇帝の寵姫などと縁続きになっておいて、その寵姫が皇后や皇太后になるという「当たり」を引いた者が特に出世するというシステムが事実上できていたのかもしれないなあ。