生家か婚家か

及景帝輔政、是時魏法、犯大逆者誅及已出之女。毋丘儉之誅、其子甸妻荀氏應坐死、其族兄邈與景帝姻、通表魏帝、以匄其命。詔聽離婚。荀氏所生女芝、為潁川太守劉子元妻、亦坐死、以懐姙繫獄。荀氏辭詣司隸校尉何曾乞恩、求沒為官婢、以贖芝命。
曾哀之、使主簿程咸上議曰「夫司寇作典、建三等之制、甫侯修刑、通輕重之法。叔世多變、秦立重辟、漢又修之。大魏承秦漢之弊、未及革制、所以追戮已出之女、誠欲殄醜類之族也。然則法貴得中、刑慎過制。臣以為女人有三從之義、無自專之道、出適他族、還喪父母、降其服紀、所以明外成之節、異在室之恩。而父母有罪、追刑已出之女、夫黨見誅、又有隨姓之戮。一人之身、内外受辟。今女既嫁、則為異姓之妻。如或産育、則為他族之母、此為元惡之所忽、戮無辜之所重。於防則不足懲姦亂之源、於情則傷孝子之心。男不得罪於他族、而女獨嬰戮於二門、非所以哀矜女弱、蠲明法制之本分也。臣以為在室之女、從父母之誅。既醮之婦、從夫家之罰。宜改舊科、以為永制。」於是有詔改定律令
(『晋書』巻三十、刑法志)

司馬師の時のいわゆる毋丘倹の乱の際、毋丘倹に連なる女性たちもまた連座することとなった。




だが、彼女らは司馬氏腹心の家から嫁いだ者であったり、逆に他家に嫁いだ者であった。




そこで、当時の司隸校尉何曽はこのような提案を部下にさせたのであった。






「魏の刑法は厳しい秦と漢の法をそのまま引き継いだもので改めるべきです。女性というのは人に従うもので自ら決定権が無く、他家に嫁いだら父母の死に際しても喪礼の制度が下げられるのです。それなのに父母の罪によって嫁いだ女性は連座し、夫が罪があっても連座することになっております。これは諸悪の根源を懲らしめることにならないばかりか、孝行者が母を慕う心を傷つけることにもなっております。男子は他の家の罪で連座することはないのに女性だけが生家と婚家両方で連座するのは、女性をいたわることにもならず、法令の本分を欠いております。よって、未婚女性は生家にのみ連座し、結婚した女性は婚家のみに連座するように改めるべきです」






確かに女性のみ生家と婚家双方の罪に連座するのは不平等だ。



発端は権臣の一族の助命嘆願という生臭いものであったにしろ、これは割と画期的なことだったのかもしれない*1





なお、このようにはっきりと定められたことで、毋丘倹の乱の次に起こった諸葛誕の乱では、諸葛誕の娘が司馬昭の弟司馬伷の妻となっておりながら連座が及ばなかったりと、司馬氏やその与党も恩恵を受けた側面がある。

*1:もっとも、「女性は嫁いだら婚家第一としなければならない」という観念を強めた側面もあったりしたかもしれないが。