印象の違い

而粵嶲蠻夷任貴亦殺太守枚根、自立為邛穀王。會莽敗漢興、誅貴、復舊號云。
(『漢書』巻九十五、西南夷伝)

王莽時、郡守枚根調邛人長貴、以為軍候。更始二年、長貴率種人攻殺枚根、自立為邛穀王、領太守事。又降於公孫述。述敗、光武封長貴為邛穀王。建武十四年、長貴遣使上三年計、天子即授越巂太守印綬。十九年、武威將軍劉尚撃益州夷、路由越巂。長貴聞之、疑尚既定南邊、威法必行、己不得自放縱、即聚兵起營臺、招呼諸君長、多釀毒酒、欲先以勞軍、因襲撃尚。尚知其謀、即分兵先據邛都、遂掩長貴誅之、徙其家屬於成都
(『後漢書』列伝第七十六、西南夷伝、邛都)


漢書西南夷伝に記されている邛穀王任貴と、『後漢書西南夷伝に記されている邛穀王長貴は同一人物の可能性がかなり高いが、記されている内容は印象がちょっと違う。




漢書』からするとあたかも王莽の時に任貴が太守を殺して王となったかのように書かれているが、『後漢書』によると彼が王となったのは「更始二年」であるから王莽が死んで事実上新王朝が滅んでからということになる。



また、『漢書』では任貴は漢の復興(後漢成立)後ほどなく滅ぼされたように感じるところだが、『後漢書』を見ると光武帝即位から数えても数えで十九年が経過するまでは光武帝から王や太守の地位を安堵されていたということのようだ。





漢書』では記すべき時代ではないと思いダイジェスト化しただけかもしれないが、それにしたって実際に印象操作レベルで受ける印象が変わってくるのだから注意が必要だと再確認。