二代目安楽公

蜀記云、諡曰思公。子恂嗣。
(『三国志』巻三十三、後主伝注引『蜀記』)

孫盛蜀世譜曰、(劉)璿弟、瑤・蒴・瓚・褜・恂・璩六人。蜀敗、褜自殺、餘皆内徙。
(『三国志』巻三十四、後主太子璿伝注引『蜀世譜』)

蜀漢の後主、晋の安楽公劉禅の子は劉璿が太子となっていたが、蜀征服後の小畜生の乱で死んでおり、劉禅爵位安楽公は劉璿の弟の一人である劉恂が継いだ。





初、安樂思公世子早沒、次子宜嗣、而思公立所愛者、(文)立亟諫之不納。及愛子立、驕暴。二州人士皆欲表廢。立止之曰「彼自暴其一門、不及百姓。當以先公故得爾也。」後安樂公淫亂無道、何攀與上庸太守王崇・涪陵太守張寅為書諫責、稱「當思立言。」
(『華陽国志』後賢志、文立)

安楽公劉禅は本来の後継ぎ(太子劉璿)が死亡していたので、兄弟順で次の子が後継ぎになるべきであったが、劉禅は長幼の序ではなく自分が寵愛する子の方を選んで後継者にしたという。




それが劉恂なのだろう。




そしてその新しい安楽公(劉恂)は驕慢で乱暴であったらしい。



蜀の人間は彼の廃位を申し出ようとさえしたが、蜀漢の遺臣である文立は「新安楽公は一門には酷い事をしているが民には及んでいない。彼は先代(劉禅)によって地位を得ただけなのである」と言って反対した。



その後も安楽公劉恂は「淫乱無道」であったといい、蜀の出世頭何攀や史家王崇なんかが諫言する事態となったそうな。




立派にお家騒動である。

周囲の人間や蜀漢の遺臣が事態の収拾に苦慮していたということが読み取れて辛い。





つまり、結果から見ると劉禅はぶっちゃけろくでもない奴を兄弟順を無視して後継者に選んだということである。




昨日の記事で紹介した王崇の劉禅評が割と冷淡なのも、彼がこのgdgdな後継者選定について歴史の生き証人になっていたということが多少は影響しているかもしれない。