(訒)艾言司馬文王曰・・・(中略)・・・以為可封禪為扶風王、錫其資財、供其左右。郡有董卓塢、為之宮舍。爵其子為公侯、食郡内縣、以顯歸命之寵。開廣陵・城陽以待呉人、則畏威懐徳、望風而從矣。
(『三国志』巻二十八、訒艾伝)
蜀を占領した訒艾がその独断での各種決定を諸将ついで司馬昭に咎められると、訒艾はこのように意見したという。
「劉禅を扶風王に封建して予算や人材を与えてやり、扶風郡内にある「董卓塢」を王宮として与え、子供には公や侯の地位を与え、天命に従って降伏したことへの恩寵を呉に対して明らかにしてやりましょう」
つまり、劉禅に王位とそれにふさわしい待遇を認めることで、呉の降伏や動揺を誘いましょう、ということだ。
ここで言う「董卓塢」とは、この「郿塢」のことなのだろうなあ(董卓が侯に封建され、領内に塢を築いた郿県は右扶風の領県である)。
長安城と同じ高さであるなどと言われている砦だが、これは王宮にも転用できるような(改装工事は必要だったかもしれんが)威容を誇る代物だったということなのだろう。
董卓自身、将来的には自分自身の「王宮」にするつもりで「郿塢」を作ったのだ、と解釈できるのかもしれないなあ。