命婦

(鍾)會時遭所生母喪。其母傳曰・・・(中略)・・・
年五十有九、甘露二年二月暴疾薨。比葬、天子有手詔、命大將軍高都侯厚加賵贈、喪事無巨細、一皆供給。議者以為公侯有夫人、有世婦、有妻、有妾、所謂外命婦也。依春秋成風・定姒之義、宜崇典禮、不得總稱妾名、於是稱成侯命婦。殯葬之事、有取于古制、禮也。
(『三国志』巻二十八、鍾会伝注)

かの鍾会さんは実母を賞賛する伝を書いているが、その中でこんなことも書いている。




「公侯には夫人があり、世婦があり、妻があり、妾がある。これらはいわゆる「外命婦」である。(鍾会の母は大変立派なお方なので、)礼の格式を本来よりもグレードアップすべきで、十把ひとからげに「妾」と呼ぶべきではない。」という議論があり、「命婦」と呼ぶこととなった。





鍾会の母は本来畜生の正妻ではなかったが、お亡くなりになった際に「立派な人だったから(位が低い)「妾」と呼ばず、侯の妻妾全体をあらわす「命婦」と呼ぶことで格上感を出そうではないか」と議論された、ということらしい。





このことが実際にあったことなのか鍾会の脳内世界だけのことだったのか判断しづらいが、もしかしたら身分の低い妾などが生んだ子が高官になった場合には、妾であった母に対してはこういった配慮がなされることもあったのかもしれないなあ。