諡号変更問題

(郭奕)太康八年卒、太常上諡為景。有司議以貴賤不同號、諡與景皇同、不可,請諡曰穆。詔曰「諡所以旌徳表行、按諡法一紱不懈為簡。奕忠毅清直、立紱不渝。」於是遂賜諡曰簡。
(『晋書』巻四十五、郭奕伝)


昨日の記事で諡号をどうするか死後に議論された郭奕だが、本人の列伝ではこうなっている。




「担当官庁から「景」という諡号にすべしとの案が出されたが景帝と同じ諡号になるから「穆」にせよという反対意見が出て、結果「簡」にするという詔が下された」




この伝だけ読むと、いかにも「諡号が「景」ではなくなったのは景帝と同じになるから」といった風であるが、昨日の記事を見れば分かるようにこの時の武帝の判断では「君臣が同じ諡号でも問題ない」であるから、列伝の方から受ける印象とは真逆と言っていい。





これは、長くなるから省略したという面もあるだろうが、何よりも「実際には「景」を使ってもいいけど彼にはふさわしくないという理由で変えることになった」という郭奕としてはなんだか微妙にカッコ悪い結果であったことを隠し、「あー残念だなー景帝と同じでさえなければ諡は「景」になっていたのになー」という、実態に即さない郭奕ageをするという効果を期待して意図的に記されたのではないだろうか。