敏腕プロデューサー張昌

張昌、本義陽蠻也。少為平氏縣吏、武力過人、毎自占卜、言應當富貴。好論攻戰、儕類咸共笑之。
及李流寇蜀、昌潛遁半年、聚黨數千人、盜得幢麾、詐言臺遣其募人討流。會壬午詔書發武勇以赴益土、號曰「壬午兵」。自天下多難、數術者云當有帝王興於江左、及此調發、人咸不樂西征、昌黨因之誑惑、百姓各不肯去。而詔書催遣嚴速、所經之界停留五日者、二千石免。由是郡縣官長皆躬出驅逐、展轉不遠、屯聚而為劫掠。是歳江夏大稔、流人就食者數千口。
(『晋書』巻一百、張昌伝)

晋の「妖賊」張昌が反乱するまでがなかなか面白い。






まず、張昌は義陽蛮出身だそうだが県吏で自ら占卜をしていたというから、字面から思いがちな「オレサマ オマエ マルカジリ」的なキャラではないようだ。


というか実はかなりヤバい手腕のプロデューサーである。たぶん。





で、蜀の李氏と晋の争いの最中に地下潜伏して手勢を蓄え、更には「帝王が江東から出てくるよ」という預言者の言葉などに惑わされて蜀行きをいやがる(荊州人なので新たな帝王に仕えたいということか)者たちを誑かして人を集めた、ということらしい。




太安二年、昌於安陸縣石巖山屯聚、去郡八十里、諸流人及避戍役者多往從之。昌乃易姓名為李辰。
太守弓欽遣軍就討、輒為所破。昌徒衆日多、遂來攻郡。欽出戰、大敗、乃將家南奔沔口。
鎮南大將軍・新野王歆遣騎督靳滿討昌於隨郡西、大戰、滿敗走、昌得其器杖、據有江夏、即其府庫。造妖言云「當有聖人出。」
(『晋書』巻一百、張昌伝)

そしてついには江夏太守とそのあたりの元締めらしい新野王を撃退し、江夏郡を実効支配。郡兵の装備その他を手に入れるに至った。


彼は「聖人が出てくるであろう」とおそらくは先の預言に合わせて流言を作り、第二段階に入るのであった。




山都縣吏丘沈遇於江夏、昌名之為聖人、盛車服出迎之、立為天子、置百官。
沈易姓名為劉尼、稱漢後、以昌為相國、昌兄味為車騎將軍、弟放廣武將軍、各領兵。
於石巖中作宮殿、又於巖上織竹為鳥形、衣以五綵、聚肉於其傍、衆鳥羣集、詐云鳳皇降、又言珠袍・玉璽・鐵券・金鼓自然而至。乃下赦書、建元神鳳、郊祀・服色依漢故事。
其有不應其募者、族誅。又流訛言云「江淮已南當圖反逆、官軍大起、悉誅討之。」羣小互相扇動、人情惶懼、江沔間一時猋起、豎牙旗、鳴鼓角、以應昌、旬月之間、衆至三萬、皆以絳科頭、撍之以毛。
(『晋書』巻一百、張昌伝)

で、何で張昌が選んだのか分からないが、県吏の丘沈という者を聖人ということにして迎えて天子とした。



それに際して丘沈は「劉尼」と改名して漢の劉氏の末裔を名乗ったという。


「丘」姓の者が「尼」を名乗るというのは多分偶然ではなく、意図的にあの夢想家とかぶるようにして「聖人」感を演出したのだろう。



更に、岩山の崖に宮殿を作り、そこに竹で鳥を作って五色の衣で飾り立て、近くに肉を置いて可愛い小鳥を集めて「鳳凰来たる」を演出したのだという。




こういった張昌の演出のお蔭か江夏方面ではビッグウェーブが到来したらしく、こぞって彼らに付き従ったという。




こんな時に言う言葉はひとつ。



やっぱり鳥がナンバーワン!







まあ最終的にはすぐ負けるわけだが、この徹底した「新天子プロデュース」「漢王朝復興プロデュース」の手腕は誉めていいんじゃあなかろうか。