馮貴人の受難

漢馮貴人死將百歳、盜賊發冢、貴人顔色如故、但肉徴冷。羣盗共姦之、致妒忌戸鬭爭、然後事覺。
(『捜神記』馮貴人)

後漢桓帝の寵姫であった馮貴人は、葬られた後にヒャッハーな賊どもに墓を暴かれた。



当時は遺体をできるだけ保存するようにして葬るものであり、まして高貴な身分ともなればその保存技術も高かったのだろう。


遺体は冷たくなっていること以外は生きている時と同じようであったという。



ヒャッハーは飢えた野獣と変わりない状態であり、生きていた時と変わりない美女の遺体を前にしてやることは一つであった。



ついにはヒャッハー同士で「彼女」の取り合いにまで発展したという。





(陳)球即下議曰「皇太后自在椒房、有聰明母儀之徳。遭時不造、援立聖明、承繼宗廟、功烈至重。先帝晏駕、因遇大獄、遷居空宮、不幸早世、家雖獲罪、事非太后。今若別葬、誠失天下之望。且馮貴人冢墓被發、骸骨暴露、與賊併尸、魂靈汙染、且無功於國、何宜上配至尊?」
(『後漢書』列伝第四十六、陳球伝)

さて、その後、桓帝の正妻として皇太后となってた竇太后の死後、反目していた宦官たちは竇太后ではなく馮貴人の方を正妻扱いしよう、と企んだという。



その際、陳球という官僚はそれに反対し、こう言った。




「竇太后は今の皇帝(霊帝)を擁立しましたし、家に罪があったとはいえ太后には責任はありません。それに、馮貴人は墓を暴かれ、賊どもに凌辱されてしまっているので、先帝と一緒に祀るにはふさわしくありません」



この件は政治的な要素による決定という面が強いので、この反対の理由も裏には政治的なものが強くかかわっていると思って良いだろうが、それにしても死んでからの盗掘という本人としては完全に不可抗力による被害者を汚れたと扱うというのはたいへん痛ましい話である。