防輔

袁子曰、魏興、承大亂之後、民人損減、不可則以古始。於是封建侯王、皆使寄地、空名而無其實。王國使有老兵百餘人、以衛其國。雖有王侯之號、而乃儕為匹夫。縣隔千里之外、無朝聘之儀、鄰國無會同之制。諸侯游獵不得過三十里、又為設防輔監國之官以伺察之。王侯皆思為布衣而不能得。既違宗國藩屏之義、又虧親戚骨肉之恩。
(『三国志』巻二十、武文世王公伝注引『袁子』)

毎兄弟游娯、(曹)袞獨覃思經典。文學防輔相與言曰「受詔察公舉錯、有過當奏、及有善、亦宜以聞、不可匿其美也。」遂共表稱陳袞美。袞聞之大驚懼、責讓文學曰「脩身自守、常人之行耳、而諸君乃以上聞、是適所以筯其負累也。且如有善、何患不聞、而遽共如是、是非益我者。」其戒慎如此。
(『三国志』巻二十、中山恭王袞伝)

魏の諸侯王を監視する体制として、「文学」という官と「監国使者」がいたようだが、「防輔」と呼ばれる者も存在していたらしい。




中山恭王の記事からすると「文学」と「防輔」は別物のようなので、「防輔」は「監国使者」のことなのだろうか?それともまた別の官だろうか?




いずれにしろ、実際の統治は国相が行っている上に本人の思想信条から行動に至るまでを「文学」が教育や指導の名の元に監視し、最終的には皇帝じきじきの使者である「監国使者」が皇帝に報告した、というところか。



これは確かに一般人になりたいと言いたくなるほどのがんじがらめではないか。




もしかしたら、列侯くらいにとどまっていた方がまだしも気楽だったのでは・・・?