曹操の孫

相殤王鑠、早薨。太和三年追封諡。青龍元年、子愍王潛嗣、其年薨。二年、子懐王偃嗣、邑二千五百戸、四年薨。無子、國除。正元二年、以樂陵王茂子陽都郷公竦繼鑠後。
(『三国志』巻二十、相殤王鑠伝)

曹操の子、曹鑠



母はあの曹昂と同じ劉夫人である。




彼は「早くに死んだ」とされているが、「子愍王潛嗣」というのを素直に解釈すると子供は設けていたことになる。




つまり曹鑠の子の曹潜は曹操の孫。




ことによると、曹操の孫息子の中では最年長の可能性もある。



曹鑠曹操の子の中でもかなり生年が早い方に属するはずだからだ。





そんな彼は文帝曹丕の時代には王・公はおろか列侯にもなっていなかったというように『三国志』からは読める。



彼が封建されたのは青龍元年であるから明帝曹叡様の時代ということになる。






曹丕が何を思い、あるいは何を理由に曹潜を封建から外し続けたのか。



まあ色々と考えちゃうよね。