山ガール

孝武文李太后諱陵容、本出微賤。始簡文帝為會稽王、有三子、倶夭。自道生廢黜、獻王早世、其後諸姫絶孕將十年。
帝令卜者扈謙筮之、曰「後房中有一女、當育二貴男、其一終盛晉室。」時徐貴人生新安公主、以徳美見寵。帝常冀之有娠、而彌年無子。
會有道士許邁者、朝臣時望多稱其得道。帝從容問焉、答曰「邁是好山水人、本無道術、斯事豈所能判!但殿下徳厚慶深、宜隆奕世之緒、當從扈謙之言、以存廣接之道。」帝然之、更加採納。又數年無子、乃令善相者召諸愛妾而示之、皆云非其人、又悉以諸婢媵示焉。
時后為宮人、在織坊中、形長而色鄢、宮人皆謂之崐崘。既至、相者驚云「此其人也。」帝以大計、召之侍 寢。后數夢兩龍枕膝、日月入懐、意以為吉祥、向儕類説之、帝聞而異焉、遂生孝武帝及會稽文孝王・鄱陽長公主。
(『晋書』巻三十二、孝武文李太后伝)


東晋の孝武帝の母は、長身で色黒で、周囲からは「崑崙」と呼ばれていたそうだ。



「山女」(山みたいな外見的な意味で)といった仇名だったんだろうか?




だが、会稽王時代の簡文帝が後継ぎ不足に悩んでいたところ占いで「後宮のある女性が尊い男子を二人産む」と出たために会稽王はその女性を探し、そこで行き当ったのが彼女であったという。




会稽王は彼女にきっちり男子二人女子一人を産ませ、その一人が孝武帝となった、ということである。






文脈からすると当時の感覚ではあまり美形とは言えない彼女をお告げに従ってセックロスしたということのようだが、実際のところは会稽王は単にそういう女性が好みだったのではないかという気もする。





余談になるが、会稽王が相談した道士許邁が最終的に「もっといろいろな女性とハメハメしたほうがええで」と言っているのが面白い。


子孫を残すことが最重要課題となる貴人にとっては、子作り行為は一種の仕事ということなので、少数の女性だけを寵愛するというのは必ずしも褒められたことではない、むしろいろんなところに種を蒔け、ということのようだ。