そうだ 洛陽、行こう

江表傳曰、初、丹楊刁玄使蜀、得司馬徽與劉廙論運命暦數事。玄詐筯其文以誑國人曰「黄旗紫蓋見於東南、終有天下者、荊・揚之君乎!」又得中國降人、言壽春下有童謠曰「呉天子當上」。(孫)晧聞之、喜曰「此天命也。」即載其母妻子及後宮數千人、從牛渚陸道西上、云青蓋入洛陽、以順天命。行遇大雪、道塗陷壞、兵士被甲持仗、百人共引一車、寒凍殆死。兵人不堪、皆曰「若遇敵便當倒戈耳。」晧聞之、乃還。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、建衡三年、注引『江表伝』)

呉の孫晧は、「黄色の旗、紫の天蓋の馬車が東南よりあらわれる。最終的に天下を統一するのは荊州・揚州の君主であろう」という(偽の)予言や、「呉の天子かやってくる」という寿春で童謡が流行っているという報告から、大挙して洛陽に入り呉が統一するという天命に従おうとした、という。




そこで孫晧は本当に妻子や後宮の人間を引き連れ(洛陽に住むことになるから、ということだろう)て洛陽へ向かったが、途中で大雪に苦しめられた兵士が「もし敵に出会ったら投降しようぜ」と言うほどに士気が低下しているということを知ると、流石の孫晧も引き返したという。





江表傳曰、初、(孫)晧游華里、(萬)紣與丁奉・留平密謀曰「此行不急、若至華里不歸、社稷事重、不得不自還。」此語頗泄。晧聞知、以紣等舊臣、且以計忍而陰銜之。後因會、以毒酒飲紣、傳酒人私減之。又飲留平、平覺之、服他藥以解、得不死。紣自殺。平憂懣、月餘亦死。
(『三国志』巻四十八、孫晧伝、鳳凰元年、注引『江表伝』)

なお、どうやらこの時は当時の大臣(右丞相万紣)らも孫晧の心配よりも自分たちと次の皇帝のことの方を心配していた模様。



残当