劇郡の王

昨日、「統治困難」を意味する「劇」という漢代以来の行政用語について記事にした。





さて、それを前提にすると以下の記事がなかなか興味深くなる、と思う。


三月、有司請立皇子為諸侯王。上曰「趙幽王幽死、朕甚憐之、已立其長子遂為趙王。遂弟辟彊及齊悼惠王子朱虚侯章・東牟侯興居有功、可王。」乃立趙幽王少子辟彊為河輭王、以齊劇郡立朱虚侯為城陽王、立東牟侯為濟北王、皇子武為代王、子參為太原王、子揖為梁王。
(『史記』巻十、孝文本紀、文帝前二年)

漢の文帝は、皇子を諸侯王に立てましょうという発議に対し、「呂氏打倒に大きな功績があった朱虚侯や東牟侯を王にすべきだ」と述べた。



そこで、斉の「劇郡」を分割して朱虚侯を城陽王に、東牟侯を済北王に封建し、同時に皇子(文帝の子)も王とした。





有名な朱虚侯劉章らは当時の斉王国(戦国時代の斉と基本同じ版図)から、「劇郡」を分割して独立した王になったというのである。



思うに、「劇郡なので斉王も大変だろうし能力がある朱虚侯たちに任せよう」みたいな分離独立を進める理屈があったのではなかろうか。




始大臣誅呂氏時、朱虚侯功尤大、許盡以趙地王朱虚侯、盡以梁地王東牟侯。及孝文帝立、聞朱虚・東牟之初欲立齊王、故絀其功。及二年、王諸子、乃割齊二郡以王章・興居。章・興居自以失職奪功。
(『史記』巻五十二、斉悼恵王世家)

本来、呂氏打倒に活躍した朱虚侯には趙王国全土を、東牟侯にも梁全土を与えるという約束が当時の大臣(功臣)たちとされていたのだという。



だが文帝はそれを反古にし、彼らには本家の斉から領土を削る形で独立することを許しただけだった。





そのことだけでも朱虚侯たちにしてみれば絶対許さないレベルの仕打ちだったのだろうが、朱虚侯たちが実際に封建されたのは「劇郡」だった、というのである。





趙全土を与えられるはずが「劇郡」一つだけになっていたというのだから、これはもう軍票とか「百万石の空手形」とかと比較するレベルとか思わないでもない。