異端の暦

(張)壽王及待詔李信治黄帝調暦、課皆疏闊、又言黄帝至元鳳三年六千餘歳。丞相屬寶・長安單安國・安陵桮育治終始、言黄帝以來三千六百二十九歳、不與壽王合。壽王又移帝王録、舜・禹年歳不合人年。壽王言化益為天子代禹、驪山女亦為天子、在殷周間、皆不合經術。壽王暦乃太史官殷暦也。壽王猥曰安得五家暦、又妄言太初暦虧四分日之三、去小餘七百五分、以故陰陽不調、謂之亂世。劾壽王吏八百石、古之大夫、服儒衣、誦不詳之辭、作祅言欲亂制度、不道。奏可。壽王候課、比三年下、 終不服。再劾死、更赦勿劾、遂不更言、誹謗益甚、竟以下吏。
(『漢書』巻二十一上、律暦志上)

前漢昭帝の時、張寿王という人物が暦の改正を具申したが、その内容がちょっと当時の暦学の常識からかけ離れていたために大問題となった。



とことん調べられた結果、どうも張寿王の言っている暦はなんかおかしいということがわかったらしく、更には明らかな誤りを堂々と上奏したりもしていたため、最終的には罪に問われたという。




その中で、張寿王の暦によれば黄帝から今まで6000年余であるとのことだが、他の者が学んでいる暦では3629年であり、倍近くも違うという事実が出てきた。




また、張寿王の暦では化益(伯益)が禹に代わって天子になったとか、驪山の女性が天子になったとかいった、通常の暦では存在していない天子がいたりもしたらしい。




どうも彼の暦は現代まで伝わっている歴史とは色々違うものを伝えていたようで興味あるところだが、暦としては当時の学者の多くが批判したということのようだ。





張寿王が「十年待ちましたが、結局反論はありませんでした」などと言ったかどうかは定かではない。