結婚(仮)

王渾妻鍾氏生女令淑、武子為妹求簡美對而未得。有兵家子、有儁才、欲以妹妻之、乃白母、曰「誠是才者、其地可遺、然要令我見」武子乃令兵兒與羣小雜處、使母帷中察之。既而、母謂武子曰「如此衣形者、是汝所擬者非邪?」武子曰「是也」母曰「此才足以拔萃、然地寒、不有長年、不得申其才用。觀其形骨、必不壽、不可與婚」武子從之。兵兒數年果亡。
(『世説新語』賢媛第十九)

晋の王済は妹を兵家の子に嫁がせようとしたという。



優秀だったその兵家の男性に目をかけていたのだそうだ。




だが母の鍾夫人(畜生の曾孫)に相談しその男性を見てもらったところ、母は反対した。




「その人が本当に優れていれば家柄に関係なく娘をやってもいいザマスが、あの青年は見たところ家柄が悪いのでこの先出世できそうにありませんザマス。それにあれは早死にする人相ザマス」



結局その話は取りやめとなり、その後その男性は早死にしてしまったという。




なんというか前半と後半で言っていることが矛盾しているような気がする(要は母として身分の低い者との結婚に最初から反対だったのではなかろうか)が、家柄とか釣り合いの重視という結婚において現代でも通じるテーマと、一度は身分が低い兵家の子に嫁にやろうと検討する程度にはガチガチでもなかったという二つのポイントが見て取れる。





王渾後妻、琅邪顔氏女。王時為徐州刺史、交禮拜訖、王將答拜、觀者咸曰「王侯州將、新婦州民、恐無由答拜」王乃止。武子以其父不答拜、不成禮、恐非夫婦、不為之拜、謂為顔妾。顏氏恥之、以其門貴、終不敢離。
(『世説新語』尤悔第三十三)

さて、そんな鍾夫人が死んだあとの事。



夫である王渾は後妻として顔氏を迎えたが、王渾の赴任先である徐州の民という身分であった顔氏との結婚に周囲からは不釣り合いで結婚すべきでないといった声が出ていたようなのだ。



王渾もそんな周囲の声に負けたのか、婚礼の儀式の際に花嫁の顔氏に対して答拝をしなかった。



それはどうやら夫婦としての関係が成立したかどうかに関わる重大事だったらしく、息子の王済はこれを以て「父は顔氏を正式な妻として迎えなかったのだ」と解釈し、顔氏のことを「母」ではなく「父の妾」として扱ったのだという。




これなどは完全に身分によって結婚時の釣り合いを決め、低い身分に対して差別的待遇をしたということなのだろう。



これも王渾自身は最初は普通に結婚しようとしていたようなのに周囲が待ったをかけているのが興味深い。