韋誕を落とせ

昔、こんな記事(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20120223/1329924042)を書いた。



後漢・魏の書家である韋誕(韋端の子)は、魏の明帝の時に門の扁額を「設置してから」書かされるという罰ゲームを受けたことがあった。




扁額は巨大な門の上部にあるわけで、これはとんでもない高所作業なのである。




その命がけのミッションをなんとか終わらせた韋誕は髪や髭が白くなっていたといい、自分の子供には「書を学んではいけない」と命じたのだという。







私はかつてはこれを魏の皇帝の悪趣味な悪戯か何かだと解釈していたが、昨日の記事などと合わせて考えてみると、全然別の要素があるのではないかと思うようになった。





韋誕が高所作業から逃げ出せば命令に背くことになるし、評判も落とすだろう。



韋誕が高所作業にビビッて筆に勢いが無ければ、韋誕の書の評判を落とすだろう。



韋誕が高所作業に失敗して転落すれば、命を落とすだろう。




どれを落としても、韋誕にとってはマイナスであり、それは同等の評価を受ける書のライバルにとってはライバルが自滅するわけだからプラスである。




初、(胡)昭善史書、與鍾繇・邯鄲淳・衞覬・韋誕並有名、尺牘之迹、動見模楷焉。
(『三国志』巻十一、管寧伝)

当時の書家では上記の人物たちが有名だったという。



その中に一人、政治的に飛びぬけて高位の人物がいるのにお気づきだろうか。



つまり、その者本人あるいは門生故吏や親族などの政治的影響力は計り知れない。




明帝に「あちゃーしまった扁額に文字入れる前に設置してしまった(棒)。この扁額は当代随一の書家韋誕さまに書いてもらいましょう」と吹き込むこともできたかもしれない。


韋誕を落とすために。






こうして見ると、韋誕の「書を学ぶな」という子供への教えは、「書を学んで第一人者になっても、自分を妬んで権力を笠に着て命まで狙ってくる輩が現れる。書など学ぶべきではなかったのだ」という後悔に基づくものだったのだろう。