(楊)阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人、使從弟岳於城上作偃月營、與(馬)超接戰、自正月至八月拒守而救兵不至。州遣別駕閻溫循水潛出求救、為超所殺、於是刺史・太守失色、始有降超之計。阜流涕諫曰「阜等率父兄子弟以義相勵、有死無二、田單之守、不固於此也。棄垂成之功、陷不義之名、阜以死守之。」遂號哭。刺史・太守卒遣人請和、開城門迎超。超入、拘岳於冀、使楊昂殺刺史・太守。
(『三国志』巻二十五、楊阜伝)
後漢末の建安十七年、涼州では三輔を追い出された馬超が涼州刺史韋康らを包囲していた。
その籠城戦は一月から始まり、八月に至っても救援が来なかったという。
この時の涼州刺史韋康は荀紣が推挙した人物であるという事実が物語るように、曹操の陣営に属するはずであるが、涼州の本拠が陥落する危機に際しても曹操からの救援が来なかったというのだ。
(建安十六年)冬十月、軍自長安北征楊秋、圍安定。秋降、復其爵位、使留撫其民人。十二月、自安定還、留夏侯淵屯長安。
(『三国志』巻一、武帝紀)
その前年、曹操は安定の楊秋討伐を終えて帰還し、長安に腹心夏侯淵を置いている。
では夏侯淵はなぜ援軍を韋康に送らなかったのか?
それともあの「三日三百」の夏侯淵ともあろう者が間に合わなかったのか?
十七年春正月、公還鄴。天子命公贊拜不名、入朝不趨、劍履上殿、如蕭何故事。馬超餘衆梁興等屯藍田、使夏侯淵撃平之。
(『三国志』巻一、武帝紀)
建安十七年、夏侯淵は長安の近く藍田を占拠した馬超の同盟者梁興を討っていた。
時期を考えると、馬超の涼州蜂起と同じタイミングであるから、呼応したものである可能性が高いのだろう。
おそらくは、梁興は夏侯淵が馬超の元へ駆けつけないように阻むのが主目的だったのだろう。
夏侯淵としても、梁興を退けないで涼州に行けば長安が奪われることになるので、下手に動けないことになる。
もしかしたら、夏侯淵が涼州救援に割けるだけの兵を持っていなかった、ということなのかもしれない。
いずれにしろ、夏侯淵としては涼州救援に行けないのは不可抗力と思われる。
この部分は、曹操(夏侯淵)の援軍を阻んで涼州を確実に切り取るという馬超側の作戦勝ちなのだろう。
では涼州失陥について曹操には何ら落ち度、問題がなかったのか、というと・・・。
以下次回。