怨恨

張遼字文遠、雁門馬邑人也。本聶壹之後、以避怨變姓。
(『三国志』巻十七、張遼伝)

三国時代の将軍張遼について、彼の先祖は前漢の聶壹であり、どこかの段階で怨み(から危害を加えられるのを)避けて姓を変えたのだという。




これについてかのWikipediaなど(今の版)では、匈奴の恨みを避けたとしており、まあこれは一般的な解釈なのだろう。






だが、良く考えてみたら、「以避怨變姓」としか言っていないので、匈奴の恨みが原因とは限らないのではないか。



陰使聶壹為間、亡入匈奴、謂單于曰「吾能斬馬邑令丞以城降、財物可盡得。」單于愛信、以為然而許之。聶壹乃詐斬死罪囚、縣其頭馬邑城下、視單于使者為信「馬邑長吏已死、可急來。」於是單于穿塞、將十萬騎入武州塞。
當是時、漢伏兵車騎材官三十餘萬、匿馬邑旁谷中。衞尉李廣為驍騎將軍、太僕公孫賀為輕車將軍、大行王恢為將屯將軍、太中大夫李息為材官將軍。御史大夫安國為護軍將軍、諸將皆屬。約單于入馬邑縱兵。王恢・李息別從代主撃輜重。 於是單于入塞、未至馬邑百餘里、覺之、還去。
・・・(中略)・・・上曰「首為馬邑事者(王)恢、故發天下兵數十萬、從其言、為此。且縱單于不可得、恢所部撃、猶頗可得、以尉士大夫心。今不誅恢、無以謝天下。」於是恢聞、乃自殺。
(『漢書』巻五十二、韓安国伝)

たしかに、前漢武帝の時に聶壹は匈奴に偽降して匈奴を誘っており、匈奴から恨みを買うのは当然と言える。




だが、この作戦は失敗しており、その際にこの作戦を推し進めた責任者として王恢が詰め腹切らされている。



この王恢の子孫だって、「聶壹さえちゃんとやっていれば」と恨む余地はあるのではないか。






つまるところ、「以避怨變姓」だけでは、張遼の一族(先祖)はいつ誰の怨みを避けようとしたのかは確定できないということだ。



もちろん匈奴という可能性は十分高く、第一候補と言っていいとは思うが、断定はしないのが誠実な態度なのではなかろうか、と思わないでもない。